知っているともっと楽しくなる! マリー・アントワネット展 その3 〜革命〜

嫌われものの王妃

今回は、3回に渡ってお届けしてきた、マリー・アントワネットの生涯、最終回です。
過去2回はこちらからお読みいただけます。

知っているともっと楽しくなる! マリー・アントワネット展 その1 〜母 マリア・テレジア〜

知っているともっと楽しくなる! マリー・アントワネット展 その2 〜14歳の花嫁〜

プチ・トリアノン


ヴェルサイユ宮殿に観光に行く人なら必ず見たいと思うのは、プチ・トリアノンではないでしょうか。僕は数年前にヴェルサイユに行きましたが時間の都合上、本当に残念だったのですが、プチ・トリアノンを見ることができませんでした。

プチ・トリアノンはもともとはルイ15世がポンパドゥールのために建設しましたが、彼女は完成をみることなく他界してしまいます。それをルイ16世がマリー・アントワネットに贈りました。

プチ・トリアノンはアントワネットが許可した者以外、入るのを許されない聖域でした。ここへ足繁く出入りしていたのがアクセル・フォン・フェルセン伯爵です。彼とアントワネットの逢瀬は宮廷でも話題でした。彼は後年、アントワネット何とか助けようとする数少ない人物でした。

招待される者がいる一方、されない者たちの憤りは高まるばかりでした。この頃になるとルイ16世戴冠時の人気は何処へやら。次男シャルルを産んだ彼女へパリの人々は祝福を送るどころか、沈黙で答えたのでした。さすがの彼女も自分の不人気に気がついたといいます。

さらに彼女の評判を地に落としたのはある事件がきっかけでした。
世に「首飾り事件」と言われる詐欺事件です。

首飾り事件

首飾りを王妃が買い上げてくださる

元々はルイ15世存命時、デュ・バリーが550粒のダイヤからなる首飾りを注文したのが始まりでした。価格は160万リーヴル(金塊1t程度!)と言います。


首飾りのレプリカ

注文を受けた宝石商は張り切ったことでしょう。しかし首飾りが完成する前にルイ15世は崩御。デュ・バリーは追放されてしまいます。困ったのは宝石商です。代金を支払って貰わなければ自分たちが破産してしまいます。アントワネットに購入を願い出るも、デザインが気に入らなかった彼女は断ってしまいます。

それから10年後、宝石商に「首飾りを王妃が買い上げてくださる」という知らせが届きます。この知らせを届けた男はルイ・ド・ロアン枢機卿。

ロアンはアントワネットと親しい友人のラ・モット伯爵夫人につかいを任され、首飾りを受け取りに来ました。「代金は後ほど王妃が払う」彼は宝石商にアントワネットのサイン入りの書類を見せ、首飾りを持ち帰りました。

首飾りを持ち帰ったロアン枢機卿はラ・モット伯爵夫人に「首飾りは自分がアントワネットに渡すから」と言われ、首飾りを渡しました。すると首飾りは何処かへ消えてしまったのです。

実はラ・モット伯爵夫人はアントワネットの親しい友人でもなんでもなく、ただの詐欺師でした。サイン入りの書類は明らかな偽装でした。ことが明るみに出たとき、すでに首飾りはイギリスで売り飛ばされていました。

世間は大騒ぎ。事の真相はどうあれ、王妃の陰謀説が囁かれ、マリー・アントワネットはますます嫌われてしまうのでした。

革命

バスティーユ襲撃 フランス革命勃発

さらに追い討ちをかけたのは1781年に財務長官ネッケルが出版した『会計報告書』でした。
この『会計報告書』には今まで明かされる事のなかった王室の贅沢費が赤裸々に書かれていました。これを知った人々は怒りをあらわにしました。

しかし自分たちの利権を危ぶんだ貴族たちはネッケルを罷免してしまいます。
新たな財務長官が任命されましたが、市民からの抗議が上がりネッケルは1788年に再び財務長官へ。しかし翌年にはまたも罷免。これを機とばかりに革命派は市民を扇動、暴動が起こり入市税関が焼き討ちされます。パリ市民は武装化を進め、後戻りできないところまできていました。

1789年6月4日、元々体の弱かった王太子ルイ・ジョセフが7歳半で死去します。
国王夫妻の悲嘆は相当なものでした。

1789年7月14日、暴徒と化した人々はバスティーユ牢獄に襲いかかりました。


その夜、「暴動か?」と尋ねる王に側近が言いました。

「いえ、陛下。革命でございます」

ヴェルサイユ行進

しかしこの事件の直後にルイ16世とマリー・アントワネットが処刑されたわけではありません。この後しばらく、王と王妃は拘束もされませんでした。交渉次第では象徴的な王として王政を残すことができたかもしれません。しかし無策のままいたずらに時が過ぎました。

その間に宮廷の人々は多くがヴェルサイユを後にしました。アントワネットを取り巻いていた貴族たち、ポリニャック夫人も例外ではありません。それでも王と王妃はそれまでと変わることなく過ごしていました。

革命の前年、フランスは凶作にみまわれ、パリ市民は食料品の高騰に苦しんでいました。それでも、のうのうと暮らしている王たち。マリー・アントワネットが「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったというのは後世の創作のようですが、それでなくとも市民の怒りが爆発する状況になっていました。

1789年10月5日の早朝、約7,000人々が「パンを寄越せ」と叫びながら、ヴェルサイユに向かって行進を始めます。


これを見たルイ16世はパンの配給を表明します。これによって一時は落ち着いたかに見えた群衆ですが、宮殿を取り囲んだまま夜を過ごした彼らの一部が、宮殿内に乱入してきます。近衛兵が殺され、興奮した群衆はそのまま王と王妃を拘束しパリに連行しました。

重なる不運

ルイ14世が住んだ、チュイルリー宮殿に連行された国王一家でしたが、それでもまだ表向きは自由に振る舞うことができました。もちろん監視付きではありましたが、衣食住には何の不自由もなく、ルイ16世は好きな狩猟に出かけることができました。

王政の存続についてはまだまだ流動的でした。マリー・アントワネットは一人の母親として将来、息子を王位につかせることに腐心しました。ルイ・ジョセフの死後、次期継承者となったのはルイ・シャルル(ルイ17世)です。

アントワネットは故郷オーストリアやブルボン家の親族、ロシア、スペイン等を頼って手紙を書き送りました。しかしよその国の内政に干渉していたい目を見るのが嫌な者たちは、あまり協力的になってはくれません。

アントワネットの故郷オーストリアでも兄ヨーゼフ2世が病死。その後を継いだレオポルド2世も死亡。アントワネットの兄二人が死亡すると、後を継いだのは甥のフランツ2世でした。


フランツ2世

あったこともない叔母の頼みなど親身になって聞けるわけがありません。

Writer

ko

KO

誕生日に会社のみんなから『世界文学全集』をプレゼントしてもらった読書好きフロントエンド・エンジニアです。WordPressとMovableTypeが得意ですが、本当の特技は薪割りです。

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