知っているともっと楽しくなる! マリー・アントワネット展 その2 〜14歳の花嫁〜

マリー・アントワネットの生涯

前回に続き、「知っているともっと楽しくなる! マリー・アントワネット展」
前回はマリー・アントワネットの母、マリア・テレジアについてでしたが、
今回はいよいよマリー・アントワネットの生涯、その前半生に迫ります。

知っているともっと楽しくなる! マリー・アントワネット展 その1 〜母 マリア・テレジア〜

マリー・アントワネット 14歳の花嫁

フランスへ

マリー・アントワネットがフランス、ブルボン家に嫁ぐことになったのは14歳の頃のことでした。現代日本ではまだ中学生ですが、当時のヨーロッパでは若すぎるということはありませんでした。

しかし彼女は生来やんちゃな性格で、王妃になるためのしとやかさとはかけ離れていました。心配した母、マリア・テレジアは娘が嫁いだ後も、生涯に渡ってこのことを注意し続けました。

夫となる王太子ルイは15歳、人見知りで内気な性格でした。
夫婦となった二人の最も大事な仕事はブルボン王家にとって大切な世継ぎを作ること。特に国外から嫁いだアントワネットの肩にはその義務が重くのしかかっていました。しかし母、マリア・テレジアは16人もの子を産みましたし、彼女はそれほど難しいこととは思っていませんでした。


ルイ16世

初夜、夫婦となった二人はたくさんの人々の期待を受け、寝室に入ります。
その日、ルイは日記に「何もなし」と書きました。自らの妻との初対面した日であり、仰々しい行事もあったはずなのですが、この一言。もちろん寝室でも「何もなし」でした。

宮廷中を騒がせた、王の愛人への嫌悪

日本や中国には大奥や後宮という制度があり、王の子を残すための女性がたくさんいましたが、フランスを含めヨーロッパにはこのような制度はありませんでした。王が愛人を持つのは一般的でしたが、あくまでも正妻の子が後継ぎです。しかし愛人にも地位があり寵姫ともなるとその権力は絶大でした。

ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人は、母系家族で生きてきたアントワネットには憎悪の対象でした。
アントワネットはデュ・バリーを無視し続けました。宮廷では身分が下位の者が上位の者に話しかけてはならず、アントワネットがデュ・バリーを無視し続けるということはデュ・バリーにとって面目を潰されたことになります。


デュ・バリー夫人

宮廷中がこの話題で盛り上がり、ついには母マリア・テレジアの耳にも入ります。母に諌められたアントワネットは渋々デュ・バリーに挨拶をしました。

彼女の夫であるルイ16世は寵姫を持ちませんでした。それは彼の生来の性格が大きいでしょうが、このアントワネットの潔癖さが少なからず影響していたのかもしれません。

ルイ16世、戴冠

19歳の国王と18歳の王妃

マリー・アントワネットがフランスに嫁いで2年、「何もなし」はまだ続いていました。世継ぎに対する周囲のプレッシャーや元々の破天荒さに合わせて、フランス宮廷の事細かなしきたりにうんざりしていたアントワネットは夜中にヴェルサイユを抜けてパリで遊ぶようになりました。彼女の宮廷での評判は下がっていく一方でした。

1774年春、ルイ15世が天然痘で崩御します。
ルイ15世の跡を継ぐ若い夫婦は夫が19歳、妻は18歳でした。

国民は新しい王の誕生を歓迎しました。王妃アントワネットの人気も上々です。寵姫に否定的だった彼女は国民の共感を呼びました。いつの時代も寵姫はその権力を乱用し、たくさんのお金使って身を飾り立て、贅沢三昧。国民の非難の的だったからです。

国民の歓迎の一方、宮廷での彼女の立場はまだ確かなものではありませんでした。
肝心の世継ぎが誕生していません。

憎きデュ・バリーを追い出し、しきたりにうるさい周囲の者も遠ざけると、彼女はますます賭け事やダンスに興じました。

権力から遠ざけられた者はアントワネットを恨み、一方彼女の周りには地位と金にしか興味のない見せかけの味方だけになっていきます。彼らは後年アントワネットが窮地に立たされた時、なんの支援もしてはくれませんでした。

ルイ16世、男の決断

実は長年マリー・アントワネットが子宝に恵まれなかったのには訳がありました。問題は彼女ではなく夫ルイ16世にあったのです。それも再三再四、臣下に改善を進言されたのですが、優柔不断というか弱気な彼はなかなか決断できずにいました。

その原因というのも現代では「イエス、〇〇クリニック」などで手術を受けられる、現代の日本男性の過半数がコンプレックスに思っているとされる、とある症状(?)のことでした。ルイ16世の場合、これが一般男性よりも深刻だったらしく「何もなし」な日々が7年間も続いていたのです。

1777年オーストリアより、痺れを切らしたアントワネットの兄ヨーゼフ2世が来訪。男同士の話し合いが持たれ、さすがのルイ16世も後には引けなくなりました。彼が手術をした翌年に1778年、アントワネットは長女マリー・テレーズを出産します。王子ではありませんでしたが、彼女は自分が王妃としての役割を果たせるということを示したのでした。

王太子誕生

母、テレジアの死、世継ぎ誕生

1780年、マリー・アントワネットの母、マリア・テレジアが逝去します。母テレジアは何よりも娘が世継ぎを生む役目を果たしていないことを、心配していました。無事子を産んだとはいえ、肝心の王太子はまだ誕生していませんでした。アントワネットの動揺は相当なものでした。

母の死の翌年、待望の王子ルイ・ジョセフが誕生します。これによりアントワネットの立場は磐石なものとなりました。さらに1785年には次男ルイ・シャルルも生まれます。3人の子の親となったアントワネットはフランスに嫁いで以来のプレッシャーからようやく解き放たれ、親としての自覚も生まれ、破天荒な行為も落ち着くかと思いきや、そうでもありませんでした。

王妃のたった一つの役割である世継ぎを無事産んだという安心感からか、彼女の奔放さにはますます拍車がかかりました。最新のファッション、ヘアースタイルでフランス中の度肝を抜いた彼女は人々の注目が心地よく、次々に浪費を重ねていきました。

お気に入りのスタイリストと美容師を重用し、様々な装飾を凝らしてエスカレートした髪型は船が乗るほどでした。古今東西、船に乗った人は沢山いますが、船を乗せた人間はそうはいないでしょう。


ファッションに限って言えば、アントワネットの浪費は一概に責められるものではありませんでした。当時のフランスはファッション産業の振興を国策としており、彼女はお金を使うことでその役に立っているという意識がありました。

実は日本の工芸品も好き

彼女がお金を使ったものには、日本の物も含まれています。今回マリー・アントワネット展で出展されている漆器です。何事も大げさに飾り立てる印象のあるマリー・アントワネットですが、繊細な蒔絵の施された日本の工芸品を愛し、少しずつ買い増してコレクションしていました。

流行の発信者としてアントワネットは莫大な費用をファッションに費やしていきました。さらに勝てもしない賭博にも打ち込んでいたので、経費はかさんでいく一方でした。しかしこのようなことは彼女がはじめたことでもありませんでした。

以前は王の寵姫がその役割を担っていました。彼女たちは国民の非難の的でしたが、あくまでも愛人であったため、その非難が王族へ向かうことはありませんでした。

奔放な王妃と恨む者たち

しかし、ルイ16世は愛人を作らなかったため、アントワネットの行為は王族への非難へと繋がっていきました。まず怒ったのは古くからフランス宮廷に仕えてきた貴族たちでした。アントワネットは自分の気に入らない人物はことごとく追放していきました。さらに自分が必要ないと感じたしきたりは全て廃止。

どれだけ王族に近い立場でいるかがヒエラルキーになっていた当時の宮廷で、彼女の行為は不興を買わないはずがありませんでした。おまけに彼女が身近に置いたポリニャック夫人は貧しい出にもかかわらず、王妃の寵愛を受け、それをいいことに好き放題に浪費し自分たちよりも良い生活をしている。


ポリニャック夫人

アントワネットの敵は増えていくばかりでした。そしてポリニャック夫人とて、本当の意味で彼女の味方ではなかったのです。

次回は、最終回! 革命からマリー・アントワネットの最期までをお届けします。

知っているともっと楽しくなる! マリー・アントワネット展 その3 〜革命〜

Writer

ko

KO

誕生日に会社のみんなから『世界文学全集』をプレゼントしてもらった読書好きフロントエンド・エンジニアです。WordPressとMovableTypeが得意ですが、本当の特技は薪割りです。

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